『越境の衝動』 第七章B/名を呼ばれない場所/板谷みきょう
屏風山の奥へ進むほど、吉は自分の名前が薄れていくのを感じていた。
獣の気配、腐葉土の匂い、夜の冷え。
どれもが吉を拒まず、同時に呼びもしなかった。
山では鬼でも人でもない、ただの音のない生き物だった。
川面に映る影を見て口を開いたが、
名の代わりに白い息がほどけただけだった。
名を呼ばれないことは、責められないことでもあった。
石も、木も、夜も理由を問わない。
それは救いに似た恐怖だった。
「ここにいれば、誰にも追われない」と
思った瞬間、胸の奥で何かが焼けた。
その熱はまだ風ではないが、
戻る道を消すには十分だった。
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