『越境の衝動』 第七章A/決壊の兆し/板谷みきょう
 
最初に気づいたのは語りを知らない子どもだった。

空に向かって「今、呼ばれた」と言ったのだ。

その夜から村では同じ言葉が漏れ始める。

「呼ばれた気がした。」と。

囲炉裏で誰かが口を滑らせかけるが、名は最後まで出ない。

咳が出る、薪が爆ぜる、風が戸を叩く。

強く意識され始めた沈黙は、もはや防壁ではない。

丘を見る者が増えた。

越える想像をやめなくなった。

夢の中で風に名を呼ばれたと語る者が現れる。

名は聞き取れなかったと言うのが一番恐ろしい。

呼ばれる準備だけが整い始めている。

春一番が来る年、語りの席は
二度と同じ形では開かれない。

沈黙そのものが語り始める。
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