『越境の衝動』 第六章/語りの席/板谷みきょう
 
あの村では丘の話をする時、必ず声を落とす。

囲炉裏の火が安定した頃、誰かが言う。

「昔、風が妙に長く吹いた年があった。」

名は出ない。

鬼の名も、娘の名も。

ただ「越えた者が戻ってきた。」という事実だけが語られる。

戻った者は問いかければ笑い、それ以上は黙る。

「忘れたんだべさ。」と語り手は結ぶ。

だが、誰もが無意識に自分の手を
擦り合わせ、確かめるように見ている。

教訓も戒めもないが、越えてはいけないとは言われない。

だから若い者は春になると丘を見る。

自分の中にまだ語られていない何かが
残っているかを測るために。

沈黙は保たれ、物語は村の外へ少しずつ滲み出していく。
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