『越境の衝動』 第五章/風が去って手に残るもの/板谷みきょう
風は、もう吹いていなかった。
丘には草の音だけがあり、
見た目には何ひとつ変わっていない。
吉だったものは両手を見つめていた。
何かを掴んだ記憶はあるが、思い出せない。
熱だけがある。
火ではなく、触れたあとの感覚だけが理由を失って残っている。
澄乃も同じように手を見ていた。
喉の奥にあった“言いかけ”が消えずに沈殿している。
沈黙は守られたが、完全ではなくなった。
翌年から丘を越える者が増えた。
誰も理由は言わない。
けれど皆、越えたあとで
手を見て、首を傾げ、しばらく黙る。
何かを受け取ったようで、
何も持っていない。
その差分だけが生き方を変える。
それを人は春の気配と呼び、
越境と呼ぶ者だけが名を失う予感を抱き続ける。
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