多作であること/
岡部淳太郎
その錯覚を味わうために、僕は月に10篇年間で100篇も書いてしまう。それはある意味ドラッグのようなものであろうが、違法でもなければある種の達成感も味わえるこのようなドラッグであるならば、僕でなくても味わいたいと思う人がいても不思議ではない。多作であることは、そのようにして自らを幸福にも錯誤させ、場合によっては救いもするかもしれない、最前の方法なのだ。
少なくとも、僕にとっては。
(二〇二四年四月)
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