昔の駄文「嫌いなもの」/佐々宝砂
 
のテーマなのだ。もっとも、私はそれを直接に詩にはしない。詩という芸術と、私の思想とを、どこかで切り離しておきたいからだ。「自分と自分が属する小世界」を大切にする思想に対して、ふらふら揺らぎ続ける分裂解体した曖昧なキメラとしての「私」を主張してゆきたいからだ。しかし、私はどこまでいつまでそれを続けていられるだろうか。私は言うほどに自信満々なわけではない。私はよく落ちこむ。ときには何かに頼りたくなる。疲れて、くらりと倒れそうになる。しかし私は自分で立っていなくてはならない。私が倒れこんでゆくさきは、私が死ぬほど嫌いな、自分の子供「だけ」をあたたかくやさしく抱いて癒やそうとする腕の中なのだ。それは私のうしろに優しく待ちかまえている。いつもいつも。どんなときも。
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