一年の計/田中恭平
えた神なのか、これをごっちゃにしてはならぬ。つまりは、神道の神を描こうとするときに、それに対抗し世界語くらいになっているヤハウェを知らずして、(神道の、又じぶんでこさえた)神は書けない。
私の家は仏教であるが、大正時代に、聖書が日本に普及してゆく過程で、これでは仏教がキリスト教にとって代わるという畏怖から、その反発として、近代・現代仏教はより理路整然とした形で、教義の掘り起こし、再構築が行われた側面がある。真宗、歎異抄の再評価などはその例である。
しかしその過程で、純化する代わりに、曖昧模糊とした部分は未だ棚にしまわれたままであったりする。これも出発になる。
又、私は通じて、二回しか読
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