言葉と詩についてのメモ/道草次郎
 
は、最初の混沌と殆ど見分けがつかないものの、やはり結晶は結晶である。言語化とは、その結晶を結晶化たらしめる際の手並みに過ぎないだろうか。そして、その手並みの優れたものが詩人なのではなくて、その手並みに余りにも自覚的な場合、その人は必然的に詩人と呼ばれるのか。

例えば、良くない体臭の染み付いたシーツを洗濯し、あまりキツくない消臭剤をふりまくことがすべてへの回答である朝もある。そういう朝というのももちろん一つの思想だ。哲学がそういう思想をせせら笑えば、哲学は自らをせせら笑っているに相違ない、という一つの哲学的意識を中心に据え考えることの中に、言葉はどういった立ち位置を持つのか。

これは非常
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