11月1日所感(つれづれ)/道草次郎
 
合はどうかというと、例えば誰かが愚かで醜くい場合(これは飽くまでぼくの主観だが)、その分だけその愚かさと醜さに直面することを求める。それを反応的に憎むということは、自分にとってはただの条件反射のような気がしてどうしてもできない。具体的には、ある人が自分に罵声を浴びせたとする。するとその瞬間にその人の未来に待ち受ける死や、抱え持つ存在の哀しみを曼荼羅のようにイメージしてしまうという具合だ。これは自分の性分として大変悩んできた事であり、若い頃に比べ今はだいぶ薄まってきたと感じてはいるが、いまだにそういう生来の要素に苦しめられる事がよくある。必ずと言っていい程何かしら巨視的な視点が一枚噛んでくるのだ。こ
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