人間をパソコンに例えて「無」を論じる/マサヒロK
れはただ単に、自分の感情が外部の物事に反応しているだけで、物事そのものを見ているわけではない。物事を通して自分の感情を見ているだけの話。人の数だけ見方が違う、というのはそれが理由。
仏教においては「無」の境地が最終段階。西洋の宗教では「神」という言葉で表わされる。では、「無」との合一が最終段階なら、なんで神や仏は最初から「無」を我々に与えてくれないのか?
それは、「無」とは「有」という正反対の状態があるからこそその存在が際立つ。正反対のものは正反対のものがあって初めてそれに気づく。「感情」があるからこそ、それを放棄する瞬間に初めて人は「無」と同一化できる。有と無の間の落差によって初めて人は無の深みに達する。そういうことじゃないかな、と理屈では分かったような気でいるのですが、いかがでしょうか?
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