詩の中の『私』/腰国改修
すべて知っているかのような前提で話したりしていることに気がつく。早々と『私』というものを知り、身につけた子は『私の友だちの〇〇ちゃんはね〜』と話すようになり、自分自身を客観視出来るようになる。長じても自分自身を客観視出来ない人がたまにいて、『私は』と書いているものの、『リカはね』とか『ユミはね』などと表現しているのと変わりない場合がある。が、本人は気が付かない。こういう幼い詩に出くわすとなぜだかむずがゆくなるのは私だけだろうか?
というわけで、とりとめのない与太話はこれにて。
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