詩論/黒髪
 
を(私の冒頭の文と矛盾するが)目的としていたのかもしれない。まねることから覚えて行った言葉は、子供の未発達な自由な精神があるから、可能性が未来に向けて持たれている。だが、行きつくところにしか行きつかない。言葉によりかかる詩は、その作者が本来いうべきことを、言われないでいるものだ。詩は作者のものであり、詩は、文化の一つである。つまりそれは行為である。詩がかかれる。誰もの、足跡が残されてある。誰かが来たのだ。それを、読み取るのだ。そして、勇気と自信を取り戻そう。言葉は美しく、書かれるべき何万の詩篇が、書かれるのを待っている。 いや、言葉は待ってさえいない。いつも自分と共にある。形になっていない言葉は、未来の方を向いており、上達に心をどきどきさせる。書かれていない詩を書こうとする意思は、自分の自信と共にあるだろう。おそらく、すべての詩人は、生きるために書くのではなく、書くために生きているのだ。こういう見方は、一見して思われるほどに陳腐なものではないだろうと、私は思っている。取りつかれている程度の違いなのだ、詩=命という妄想へ。
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