言葉の個人史/葉leaf
てプライベートなものであり、その実体は詩人自身にしか、しかも不完全にしか把握できない。言葉の位置づけは詩人の言語使用により絶えず流動するものであり、しかも複雑に錯綜している。言葉の個人史を詩人自体が語ることすら困難である。そこに批評家はどう介入するかであるが、もちろん批評家も一定の系譜を作り上げることはできる。特定の詩人が一定の言葉やテーマをどのようなダイナミズムで系譜的に使用していったか、批評家は一定のストーリーを作り上げることができる。だが、言葉の個人史はその詩人にしか本来知り得ないものであり、批評家の作り上げるストーリーとは次元の異なるものである。
詩の読み手としての我々は、詩人一人一人の個人史の表面をなぞることしかできないが、それでもそこには様々な発見があるだろう。そして、詩の書き手としての我々はたまには自らの言葉の個人史を自覚的に語ってもよいかもしれない。
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