善ということ 詩論として/グロタン
れたと思っても腹をたててはいけないし、譲ってやったのに「ありがとう」とお礼を言われなくても嫌な気分になってはいけない。そんな感じでしょう。
しかしそうはいっても実際には人間には感情があるので自己を統御出来ません、そもそも絶対という無限性に対し人間の有限性から到底無理です。
そこで東洋的善は行為へはいかず(もちろん二律背反の意識が常に働けば人間として懐の深い人物になれるでしょう)内部生命に向かうことが主軸になると勝手な私見ですが考えます。
ではそこでなにをするかというと瞑想をする。
邪念を捨てて概念を捨てて純粋な集中、純粋な緊張で純粋な善と自己統一する。そうすると心は何を求めるか、
おそらく生そのものの純粋な心地よさ、切なさ、愛しさなのではと私は考えます。
単に理想論なのかもしれませんが、その磁場から詩が歌われてくるものと思うのです。
善については西洋的善と東洋的善の二刀流で自分なりの「善」の定義をしっかりと考えてみるのがいいと思います。
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