孤独の変質/葉leaf
 
う。なぜなら孤独な実存の中にはすでに他者が包含されてしまっているので、それを率直に愛することができなくなるからだ。人はもはや孤独に単純に酔うことができない。孤独は酔えるほど甘美なものではなく、何やら複雑な味わいのする他者との相克の現場となるのである。
 自己はもはや高山の頂に聖別された神殿などではない。多数の人間が往来する交差点に過ぎない。そのような自己を愛するということは、純粋に自己の内部で自足することではなく、他者や社会へとあまねくまなざしの範囲を拡散することに他ならない。もはや自己を探求することはすなわち他者や社会を探求することである。自己を愛するとき、そこにもはや純粋な自己は存在せず、ただ関係のネットワークを忙しなく追いかけていくことになるのである。
 だが、そのように変質した孤独にこそ、私は文学の成熟した形があると考える。自己の純粋培養ではなく、雑多な菌の混じる原野における他者との相互嵌入。現実の複雑さにおびえることなく、むしろその複雑さを楽しむための文学。実存的な開かれがない以上、文学の開放もないだろう。

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