ある男の命日に/イナエ
その川は病院の屋上にあった
男はゆっくりと川に入った
早暁の屋上には看護師はいなかった
監視カメラも男をとがめなかった
男の中で長年…
そう 半世紀ものあいだ
渡りきれなかった大陸の川
少し先を同期の戦友が泳いでいく
銃が濡れないように捧げて
向こう岸は靄に沈んでいる
身体が重い
戦友の姿はどこに消えたか
遠く聞こえていた砲弾の音は聞こえない
身体が沈む
背嚢を捨てた
軍靴も捨てた
身軽になると向こう岸が
彼岸が靄の中に明るく
華やかに浮かんでくる
男の唇が笑む
目にはなにも見えなかった
見る必要も無かった
男はゆったりと抜き手を切り
水を蹴った
監視カメラを覗く者がいたならば
風呂に静かに浮いている男を見ただろう
男は静かに息を吐いた
が 再び吸うことはなかった
男はゆったりと
屋上の川を渡っていった
戻る 編 削 Point(10)