語る資格/葉leaf
 
詩のフィールドというものは誰にも特権がないフィールドであり、あらゆる虚構が許されるのである。その虚構の一端として震災が扱われても何ら不自然ではない。
似たような問題は例えば石原吉郎について語る場合にも生じる。凄惨なシベリア抑留体験を経ながら、その当事者でありつつ沈黙の方へ傾いたこと。当事者であり最も細密に語れるはずの人間が、抽象的・比喩的な表現に終始したこと。そのことによって、むしろ部外者はシベリア抑留について表現しづらくなってしまっている。語るべき人間が沈黙している以上、大して語るべきでない人間が何を語れるか。だがこれこそ上述した実在論の誤謬なのだ。詩はフィクションでありすべてが相対化されたフィールドであると考えれば、シベリア抑留について最近の若者が作品を書いても一向に差し支えない。むしろ、実体験とは違った、資料収集体験に基づく新たな詩編が生まれていくであろう。実体験や歴史的真実に特権性を与えることには懐疑的であるべきで、詩はもっと自由に書かれるべきだと思う。
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