のどぼとけ×時間×エクスペリメント/高橋良幸
 
ないのかもしれない。試みとして閉じていても、ある程度仕方ないのかもしれない。それに対して朗読は開かれている。声が誰の耳にも届いてしまう。試みに合う箱を超えて。知己や親密さを超えて。朗読は誰もの耳に届いてしまうこと自体が試みなのかもしれない。PSJで優勝した方の朗読が新しく感じたのは、現代詩の地平と朗読の地平を両方模索していたことに加えて、何かがあったのだと思う。定型から離れた日本語の朗読は現代詩と歌のあいだでまだまだ揺らいでいるのだろう。その境界を試す場所がある。現代日本語が古典となるまでのあいだに、日本語を母語とする人間はどれだけその境界を突き詰められるだろうか。

 広告のアナウンスが完璧に綺麗な電子音声で読み上げられて、人間がそれを心地よいと思ってしまう時代が来たら、声帯は退化を始めてしまうかもしれない。心地よさは商機につながる。美声以外は商業から駆逐されてしまうかもしれない。それでも、電子音声がいかに琴線に触れられるかを競う傍で、生身の朗読が目指すものは今と変わらないはずだ。日本中のお墓にしまわれていく、のどぼとけの試作品と完成品と。
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