◎自分をいつくしむとは??身体と、ことばの育みについて         /石川和広
 
を「原=わたし」と呼んでみる。表現され、手渡されるとき、「原=わたし」は、どうなり、その本質は、どこへいくのだろうか。
テクスト論の文脈では、「原=わたし」は、死ぬことになる。
しかし、死んでなお、あることが多いだろう。死にきっていないとも言えるかもしれない。
私は、その死んだ、あるいは死にきっていないだろう「原=わたし」への、呼びかけが、文の原基もしくは、単位だろうと思う。
わたしらしいかどうかも、身元不明な「原=わたし」は、制度的思考だけでなく、人の情けから、推し量っても、「気味の悪いもの」「その人のものでないようなもの」、フロイトの言う「ウンハイムリッヒ=なじみのない、家の者でない」
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