井上靖小論/葉leaf
淵
ああ、遠いあの日のように烈しい夏がほしい。少くともあの日だけは夏だったのだ。雑草の生い茂っている崖っぷちの小道を、私は駈けていた。谷側の斜面には血のように赤い彼岸花が咲き、山側には雨のように蝉の声が降っている。そんなところを、私は駈けていたのだ。烈しい午下がりの陽は真上から照りつけ、生きているのは私と、私の行手に先回りして群がっている蜻蛉だけだった。村の人という村の人は、それぞれの家で、思い思いの恰好で死に倒れていたので、私は谷川の、羊歯と岩で囲まれた小さいインキ壺のような淵に、身を投ずるために急いでいたのだ。
井上靖は小説家として有名だが、詩もたくさん書いている。新潮社から全詩
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