いわしの骨からあげ/そらの珊瑚
数十年ののち、こうして思い出すと、あの苦々しい不味さも、滋養のある食べ物のように優しい後味を連れてくることを。
わたしの長男が高校生の時に、体育の授業中に転んで足にひびが入った。
そのときに心の奥底には罪悪感のようなものがあった。つまり、母親としてカルシウムをちゃんと摂らせなかったことで、骨密度が低いのではないかと。
けれどわたしはいわしを三枚におろすことが出来ない。
せいぜいがじゃこふりかけで勘弁してもらうしかないのだ。
今日食べたものはきっと今日のエネルギーになるのだろうし、明日の体の一部になるのだろう。
そうやって消化されたあともなお、体のなかに宿り続けるものもあるような気がする。
筍が竹の子である時はほんのひとときだけれど、竹になったあとも筍であった記憶を懐かしむことがあるのだろうか。
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