遠い日の物語/薫子
 
ゃれして私は二階のあまり目立たない席を取り、演奏を聴きにいった。

昔、聞き慣れた彼のバイオリンの音色は、さらに丸みを帯び素敵な旋律を奏でていた。
皆と弾いていても彼の音色だけが私の耳には届く。

聴いていて、私は満ち足りた気持ちになった。


心に浮かんだ言葉は


ありがとう


あんなに優しい時をくれてありがとう。


そして、今


疲れていた私を癒してくれて


ありがとう


貴方に言える言葉は他に何も見当たらない。


ありがとう。


以前より自信に満ちた彼の風貌と深みのある演奏が時の流れを私に知らせる。


彼はそこに私がいることは知らない。
お互いにとってわたしも、彼も、幻でしかない
それは、過去の幻であって、現実には存在しない。


その幻の二人が出会った日の姿のままホールで笑いあう姿が一瞬目の前に現れ


スッと消えていった。



午後から降り出した大粒の雨音を聴きながら、ふと思い出した遠い日の物語。
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