疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』について/葉leaf
軒先で十二支の終わりげな鼻先だ(欲深い獣が嫌いだった、鼠や羊の指が怖い(水無月の節季は四つ足どもの酣だ(中払いに暖簾くぐれば、
(歯車VS丙午)
私が疋田の詩に感じるのは、他者に対する責任への応答が、自己に対する責任への応答でもって代替されている点である。疋田はストレートに他者に応答しようとはしない。かといって独善に陥っているわけでもない。まずは自己に対して誠実に応答するということ、それが他者に対して誠実に応答することの前提となっていることを自覚しているのではないだろうか。
例えばお笑いがそうである。お笑い芸人は一見意味不明で奇天烈で独善的なことを観客の前で話すが、それ
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