『風立ちぬ』をめぐって/動坂昇
 
てマルコは次のように答える。「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ」 他方、二郎は、その稼ぎを会社を通じて国家からもらうのだった。
 マルコが、国家の求める英雄像をいやがって自分に呪いをかけて豚になったという点でアンチヒーローとして逆にひとのヒーローたりえている一方で、二郎はその資格をもっていない。二郎は、実際には国家的英雄からかけ離れているにもかかわらず、いつ国家的英雄と祭り上げられてもおかしくないほど無防備だ。実際、零戦をつくった技術者としての後世の名声はそういうものだったではないか。
 空への憧れを共有していながら、ふたりはまったく異なる人物像である。
 仮に、マルコが憧れを追いながらもしたたかに立ち回るこで呪わしいものに利用されずに生きる理想の主人公像であるとすれば、二郎はただ憧れを追うことしかできず自分にとって大切ないのちを守り抜けないうえにその憧れによって大量の死人を生み出した批判されるべき主人公像である。
 
 宮崎監督はまさしく批判を引き起こすためにこの映画をつくったのではないか。
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