笛吹き少年の行くえ(8)/Giton
 
〔「その児の頬かすかにわらひ/唇は笛吹くに似き」という「下書稿(三)」の末尾2行──Giton〕は、〔…〕『神楽』ということばに吸収されて、やがて『あやしくも鳴るやみ神楽/いみじくも鳴るやみ神楽」という美しい結晶(双晶とでもいうべきか)に成長したようにみえる。」

「『口碑』が『神楽』に生まれ変わり、天地創造の神話世界に詩想が拡大してゆく過程は鮮明である。」

たしかに、教科書的で当たり障りない解釈なのかもしれません。

しかし、「下書稿(三)」末尾2行を「救われた思い」と言って片付けてしまう読みは、どうなのでしょうか?‥この作品が訴えているものに、あえて目を閉ざしてはいないでしょうか?
そして、作者賢治の意に反して、「神楽」と記紀神話を美化してはいないでしょうか?

「日天子」の登場にみられることさらなデフォルメ、「み神楽」の怪異性、‥こうした部分に賢治が心血を注ぎ込んで表現しようとしたものを、私たちは、決して無視してはならないと思うのです。}

ご完読ありがとうございました。
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