「羅須地人協会」と満州開拓団との繋がりについて(ノート)/Giton
会し、家出してまで身を預けようとしたにもかかわらず、『国柱会』は賢治を相手にせず、「そういう家出人は多い」などと言って追い返そうとし、昼休みのビラまきに動員した程度のかかわりしか持たなかったのです。賢治は、代表者・田中智学との面会は一度も許されませんでした。後年、宮澤賢治が死後に有名になってから寄稿に応じた国柱会理事・高知尾智耀の回想記(賢治の国柱会への私淑の裏づけとされる資料)も、よく読んでみれば、多数の信徒のひとりと、申し分け程度に短時間面会して一般的な訓話を垂れた程度の内容でしかないのです。つまり、賢治は、国柱会を通じて満蒙開拓ともつながりをもつほどの関与を、許されていなかったということです
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