「羅須地人協会」と満州開拓団との繋がりについて(ノート)/Giton
 
誌の論調を見たことのある者ならば、上の賢治の詩を見て、驚きを禁じえないのです。戦後ならば、こういう感想を持つ人も稀ではないでしょうけれども、1930年当時にそれはほとんどありえない(柳宗悦などわずかな例外があるきり)ことだったと思います。

つまり、宮沢賢治は晩年においては、朝鮮にしろ満州にしろ、外地の異民族に対して、日本人一般とは隔たった同情的な視線を持っており、また、開拓移民を発揚する言説に対しては、まゆつばの気持ちを持っていたと思われるのです。
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