小説における文体の問題/yamadahifumi
 
。あるいは読む。しかしそこには、何かしらの固定された一つの視点がある。動かない、と考えられている無意識的な場所がある。そしてそれがあるがゆえに、小説家や小説家志望者達はやすやすと小説を書くのであり、読者はそれをやすやすと読むのだ。だがそこには何かしら退屈なものがある。


 綿矢りさみたいな作家が、すぐにその文体を失って、いわゆる『普通の小説』を書くようになる、とはどういう事だろうか。僕は最近の村上春樹などもそういう風になってきている気がする。『1Q84』なども、過去の作から比べれば、文体的には劣っていると思う。だが、作家らはその事には気づいていないように見える。彼らはむしろ、自分の世界に対
[次のページ]
戻る   Point(3)