燃焼/葉leaf
状態であって、だからこそ絶望はひめやかな快楽を伴うのではないか。
そもそも絶望は私の内部に巣食う病巣であったろうか。それは社会と共に社会の側に存在するものではなかったか。確かに絶望は孤独に発生し、無条件・無根拠に人を襲うものだ。だが、その孤独や無条件・無根拠という状況は個人と社会の隙間に漂っているものではないだろうか。絶望は純粋に個人的でもなければ純粋に社会的でもない。個人と社会との呼応の関係に乗っていくものであろう。
会社帰り、駅のホームで、群衆に紛れながら、疲れた私は何かの火花のように絶望に燃やされることがある。絶望を燃やし切ることは果たして可能なのだろうか。二度と絶望が訪れないようにすることは、果たして。私は絶望と共に燃えてみる。社会も火種にくべて精一杯燃えてみる。何の負荷もない状態でただただ燃え続けていき、このまま灰になってしまったら、私の青春は本当に終わってしまうのではないか。病巣としての絶望は青春を、若さを、私の中に保ち続けてくれたのではないだろうか。
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