可能性の地獄/yamadahifumi
 
う概念を提唱したので、この事についてもっと広げてみなければならないだろう。以上の村上春樹、あるいはミシェルウェルベック的な問題というのは全て、『リア充的』な問題だった。それらの人々は皆、交換可能な他者の間をただ通行していく、自分自身も交換可能な一人である。自分にとって他人が交換可能な事は好都合だが、他人にとって自分が交換可能な事は不都合である。だが、この好都合だけが僕達に微笑む事はない。真実は常に、僕らのその身に、苦しい焼き印を施す。こうしてリア充は苦境に立たされるが、しかし非リア充も同じ事である。僕はその事を次に少しだけ書こう。


 非リア充。それはどういうものだろうか。余り人と接触せず
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