【小品】囚われ/こうだたけみ
びに、男は決まって親しげに話しかけてきた。けれども振り向いてはいけない。目を合わせてはいけない。私は幾人ものあの男の横をすり抜けて、必死になってアパートをめざして歩いていく。
手摺に塗ったぼんやりした色のペンキがところどころ剥がれて赤く錆びついている階段を上り、震える手で鍵を取り出し、いつもの数十倍の時間をかけて開けたドアの隙間に滑り込む。すぐに内側から鍵をかけチェーンまでしっかりとめる。もうここまで来れば大丈夫。玄関に買い物袋をほっぽり出すと、部屋の明かりをつけて、昼間から開けたままだったカーテンを閉めようと窓辺に寄る。
そこで、男と目が合った。
アパートの前の道路にこちら向きにめり込んだ男が、二階のこの部屋の窓を見上げて右手を挙げている。
「やあ」
私はもう、あの男から目を離せない。
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