ジェリーフィッシュの夜/イグチユウイチ
むせ返る 熱帯のような渋谷の夜に、
美しいクラゲが浮かぶ。
透明で ひんやりした 水底のような夜の闇に、幾つもの、
ネオンの色を帯びた 美しいクラゲが浮かぶ。
僕はと言えば、緩めたネクタイをぶら下げたまま。
視線は遠くに、ぼやけたまま。
指一本で間抜けなピアノを弾くような 空しい気持ちを抱えて、
今日も あの涼しい横顔を想う。
クラゲのやわらかな触手に絡め取られたいのは、
この胸の 可愛い期待。
羊水に浮かぶ赤ちゃんみたいね と、
いつかクラゲの前で あの人が言った、
その風鈴のような声が、さざ波みたいに
何度も 何度も 打ち返しては、
この熱っぽい体や 八月の夜は、大いなる揺りかごのリズムで
優しい眠りに ついていくのです。
今夜もあの人は、幼い子供を抱いて、夫に抱かれて、
あの日のような顔で眠るのだろう。
そうだろう。
ああ。
誰かの記憶に残るための 切ない努力を、今日こそ やめるよ。
去らない微熱を持て余しては、羊水の海に揺れる、
ジェリーフィッシュの夜。
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