絶語の果て/渡邉建志
たはずの読書が能動的なものに変わる。その時、自己はこわれ、あらたな自分がつくられている。
読書の様態は、ひとそれぞれ、千差万別である。読書には、映画のように、必要とされる限定された時間というものはない。読書に費す時間は個別のものであり、その速度は一様ではない。時間をかければより内容が把握できるというものでもない。
私の場合は、大きな流れをたゆたいながら、不意に起ちあがる、杭のような言葉やセンテンスのひとつひとつと、その度に交渉をもちつつ、書物それ自体とは一見無縁な寄り道を楽しめれば、それは最も充足した読書(体験)と言える。
だが、そうした遊びをゆるしてくれる本は、そう多くはない。不思議なのは
[次のページ]
[グループ]
戻る 編 削 Point(3)