ヴェネツィア/藤原絵理子
 
 夕暮れが近づいてくると,昼間あんなにたくさんいた観光客の姿も減って,運河のさざ波が落ち着きを取り戻してくるように見える.この町には都会にいるような物売りの姿がない.美術館の横の広場で,それも‘No Fakes’と書かれた看板の前で店を広げる偽ブランド屋もいない.暗くなると方向がわからなくなってしまうほどの複雑な迷路と,それを勝手気ままに分断する水路があるだけだ.
 溝.それを満たして他人との間を隔てる水.水は特殊な成分が溶けこんでいて,他人のものと混ざることがない.混ぜようとすると激しく発熱して蒸気を吹き上げ,致命的な火傷を負ってしまうのだ.

「そんなことは考えたことがなかったですね.私
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