海埜今日子詩集『セボネキコウ』について/葉leaf
 
生命を回復しているように思われる。言葉が生きている、といったとき、それは言葉が平坦なフィールドでスムーズに流れていることを意味することが多いかもしれない。確かに生命の通常な働きにおいて、生命は自動化しているのであり、何も違和がない状態において生命は通常の生を生きている。だが、海埜の詩においては、言葉が、その響きにおいても意味においても流れにおいてもリズムにおいても、それぞれが独立に目立ち始め、言葉がその自動的な流れをやめて、そのそれぞれのパーツのありのままの姿を再認識させようとして迫ってくる。言葉が自動化をやめる、つまり正常な働きを幾分停止することによって、その言葉のありようを可視化してくる。人間が日々の生活の合間、不意にその自動的な生を停止して「自分は生きている」と実感するときのように、言葉もまた、その自動的な流れをわずかに停止させるとき、逆にその生命を再確認するのではないだろうか。


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