「悲しみ」についての考察?決定論を参考に?/中川達矢
 
発すれば、慰めるなり、「どうしたの?」と聞いたりなんなりという行動をとることができる。
その発話に対して、何らかの行動をとることができる、という点においては、「悲しい」という言葉を何となく理解しているように思える。
だが、上述の考察を引き継ぐならば、その悲しみには、言わば、厚みがある。
その原因は、決まって一つであるわけではない。
その時その場でその人が抱く悲しみには、その時その場でその人が抱く原因がある。
他者の悲しみは、必ずしも私と同じように起こりうるべくして起こるわけではない。
他者の文脈は、多少なりとも共有はできる(趣味、好き嫌いなど)が、そこから抱く感想や感情は異なってくる。
そうした原因や結果が異なるからこそ、「悲しい」という3文字には、悲しみの全てがあらわしきれない、言わば厚みが生じるのではないだろうか。


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