「生きる悲しみ」について/yamadahifumi
 
にすぎない。
 こんな愚痴みたいな事を言ったのは、おそらく僕が疲れているだが、しかし、ラスコーリニコフ的に、「生きる悲しみ」が胸を締め付けたからでもある。・・・生きる悲しみを体感できるという事は、僕は、よほど幸福な人間なのかもしれない。生きる悲しみを体感できるのはもちろん、真に生きようとする者だけであろうから。
 死は、我々から可能性を取り除くが、生もまた同様に、我々を一つの機械にする。我々は、別種の、無機質の生と死とよばれる、なにものでもない、我々を無に誘う何かに取り囲まれて生きているが、本当の死と生を見た試しはない。生のエネルギーの横溢は存在せず、死は常に他人のもの。ぼんやりした不安でしかない。
 我々はおそらく、この二つを止揚する為に生きているのだろうが、その道のりは果てしなく遠い。私にはただ、かつての偉大な先人達が、綺羅びやかな影として、目の前を過ぎ去っていくのを認めるだけだ。
 さて、私は翌日に備えて、もう眠らなければならない。
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