川柳が好きだから俳句を読んでいる(3、赤尾兜子のこと)/黒川排除 (oldsoup)
 
ートロジー的俳句は植物の動物的見立てであった。動物はえぐられ、植物や無機物は過度に動物化し、そのリンチの様子を人間は面白おかしく振る舞いながら(時には死んでいるが)立ち会っているという有様を、少なくとも中期の赤尾兜子は描くのがうまかった。

 ロシアホテル燃えしあくる日春霞

そしてほかならぬ彼が死んでしまった。彼はじぶんで死んでしまった。彼は彼自身が見つめてきたであろう動物と化してしまったのだった。晩年の作品は、多くの晩年の俳人がそうであるように、本当にごく普通の俳句でありむしろつまらなさすら感じる。それでも、上記の通り、冴えた句を残しはしたのだが、全体の割合としては圧倒的に俳句的な俳句を作っているだけにすぎない。全句集の帯ですら、「晩年は伝統俳句への志向をも……」と認めている始末だ。我々に幸運なのは彼の中期の作品が膨大だということである。我々に不運なのは彼が自殺したということである。
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