ともだち/片野晃司
 
説明できるのなら、ぼくは
説明そのものであり、これは説明そのものだ。たとえば
ぼくがきみを説明できるのなら、きみは
説明そのものであり、ここにあるこの説明がきみだ。いま
ぼくの胸がきみの胸にふれる、その
感触を言葉にしてしまうとき、ぼくは
きみを覆う蛹の殻に触れた気がする。きみがいま
蛹の殻のなかですこし身じろぎをした気がする。扉が開き

《永きにわたりご愛顧いただきました言語ではございますが》
《このたびサービスを終了させていただくこととなりました》

どこかで聞いた説明が入ってきてすこし狭くなる。扉が開き
どこかで聞いた説明が入ってきてまた狭くなる。きつく
綴じこまれてぎりぎりと頭痛がちな制服のすきまで、ようやく
きみとぼくのこと、走り去っていく風景のこと、すべての
ことがらが説明され尽くされたことがわかる。いま
ページの隅で通勤電車は停止して、きみは
このページを閉じようとしている。



(詩誌ガニメデ五十一号掲載 2011年4月)

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