抒情性の彼方へ/葉leaf
 
会を前にして、詩はそれらの重みを十分に量ることができるか。一人の人間が生きていくためには、他者や社会と対等に渡り合えなければならない。その倫理において詩が有効に機能しているだろうか。
 もちろん、詩は抒情性のみを追求すればよい、他者や社会などは現実的過ぎる、他者や社会との闘いで疲弊した魂を詩は癒すのだ、そういう主張にも十分正当性がある。だが、そこまで他者や社会が人間にとって大きな問題となってくる青年期に、なぜ最も人間的であるはずの詩がその他者や社会との闘いを書かないのだろうか。二人称や三人称を、一人称の中には回収できないものとして、そこから常にあふれるものとして、それでもなお詩の中で何とか規定していく、呼びかけていく、そのことによって、詩は他者や社会と渡り合えるだけの重みを獲得するのではないだろうか。
 すべてを一人称の中に回収し、一人称を特権化する抒情詩は、人間が長じるに従い直面する他者や社会の問題をうまく処理しきれない。二人称や三人称の尽きせない重みを十分くみ取ったうえで、それと渡り合う倫理を提示すること、そこに、青年期の詩の課題はあるのではないだろうか。

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