タケイ・リエ小論/葉leaf
で崩壊するのである。
ところで、このような詩的な自我の在り方は、むしろ我々の自我の本源的なあり方を反映していないだろうか。確かに、我々は、かけがえのない存在でありたいし、自我をまとめあげたいし、社会からも自我の確立が要請される。ところが、本当はそのような近代的自我の衣装をまとうことに疲労しているのではないだろうか。詩は、哲学のような理論・体系志向ではないし、社会の要請に真っ向から応えるものでもない。詩はむしろ、哲学からこぼれおちるもの、社会の表舞台からは隠蔽されるものではないのか。哲学が把握する自我や社会から要求される自我は、なるほど自己同一的で連続的で統一的な自我かもしれない。だが、そこからこぼれおち、その裏側をなす詩的自我は、非同一的で、不連続で不統一なのではないだろうか。そして、その詩的自我にこそ、内圧と外圧から解放された、人間の自然なあり方があるのではないだろうか。
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