浮遊霊/ホロウ・シカエルボク
ある廃屋のひとつを住処にしていた。それはもとは町医者が経営していた小さな医院で、その医者は年老いてから流行病で死んだ。それ以来誰も住んだことは無い。もしかしたらその一角で最初に空家になったのはその建物かもしれない。かれはその家の鍵を持っている。初めてそこを訪れたとき、玄関脇に並べてあったからの植木鉢に躓いて転んだ。そこに鍵があった。おそらくはもう誰もそこにあることを覚えていない鍵が。街が暗くなるとかれはそこへ帰る。そして朝までぐっすりと眠る。日がな一日歩き続けているおかげで、眠れないということが無い。かれはもちろん風呂に入らない。けれど不思議なほど体臭は無かった。食べ物のせいなのかもしれなかった。歯も磨いたことはないが、虫歯になったこともなかった。まだ風邪ひとつ引いたことが無く、腹具合が悪くなることもなかった。死神の舌のような夕暮れのなかをひとりの少年が路地の影に向かって歩いてゆく。あなたが路地の奥で羽ばたきのような小さな足音を耳にするとき、そこには影に向かって歩いてゆくかれの姿があるかもしれない。
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