雑感 4/るか
ある。たとえば「たとえば」という語は、あるいは「のような」のような語は、「これは修辞表現である」というメッセージを既に含んでいるものとみられる。じつは修辞を公的用法と区別して修辞と呼ぶこと自体が既に公的な秩序作用を受け入れることである。それは詩=修辞、の立場を取るならば尚更、詩の公的秩序への従属と奉仕を意味しうる。だが果たして詩は「言語」に奉仕するものであるや否や。事態は逆であり、言語の根源的な生を回復し、理想状態を少なくとも可能性として有するものが「詩」であるのかも知れないのだから。言葉を介しての世界との、他者との交感。
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