さよならパリ??高塚謙太郎とボードレール/葉leaf
 
は内部にしか存在しえない。すると、書く主体と書かれたテクストとの存在論的な差異を考えると、高塚自身は内部からはじき出されて外部に居ることになる。そして、高塚は外部を充填することで世界内の存在として世界と交感する。以上から、ここで一つ高塚とボードレールを区別する雑な図式を考案してみよう:

F1.高塚は外部にいながら内部を描く。一方ボードレールは内部にいながら外部を描く。内部は有限で外部は無限だ。内部と外部の流動的な境界にこそ詩が生まれる。

高塚は自らを外部化することで同時に自らを無限化した。彼は外界の文法に制限された有限な存在ではなく、あらゆる言葉を生み出せる無限の存在である。一方でボー
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