さよならパリ??高塚謙太郎とボードレール/葉leaf
し、攻撃性を独立させ純化させることで、その攻撃性の引き起こす結果に対して責任を負わないのである。これは高塚の詩の内部性=有限性にふさわしい。高塚は自らの攻撃性を有限化することで逆に純化している。それに対してボードレールの攻撃性は外部性=無限性を持っていて、外界の文脈と接合されることで、説明や責任の無限の連鎖の中に組み込まれていく。それゆえ、高塚の攻撃性はその衝動、つまりいまだ何物とも関わらない段階において優れていて、ボードレールの攻撃性はその結果、つまりもはや様々なものと関わってしまっている段階において優れている。
いずれにせよ、高塚とボードレールには攻撃性という共通点があることは疑いがない。
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