雑感的に 2/るか
という戯れに
ほかならないのだ。ただし、信仰と一致した厳粛な戯れである
。この点で、バタイユやメルロー・ポンティの、コミュニカシ
オン乃至コミュニオンをめぐる思想は、益する所がおおいよう
に感じている。
美が、快楽=脳への刺激に誤って還元される時、芸術の威信
は失墜させられざるを得ないであろう。それは麻薬を始めとす
る、外的な技術による興奮状態の生成に、席を譲る他ないので
ある。そのようなテクネーは、今後、益々発展を示すであろう
。しかし、それは断じて「芸術」であってはならない。同じこ
とは学術的な「教養」についても指摘しうる。方向ー意味ー感
動、のモメントを欠いた知的刺激、興奮状態の追究は、結局、
人間の、刺激ー快楽への、飽かざる無限の欲求の一形態をなす
に過ぎない。それは、感ー動にとって手段的なものを崇拝する
倒錯であり、偶像崇拝、フェチシズムへの退行に他ならないと
いうことだ。
「心」という共同的現象の意味に、立ち帰る必要を、痛切に
感じている所である。
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