ヌーヴェル・ヴァーグという美学 ; 批評“そのもの”として/葉月二兎
 
gue)”。これを“誰か?”、と問うことは偽りの問題に陥ることになる。問題は生じるのではなく、〔作品:作者:読者〕によって(既に)骰子を一擲され、形成されつつ“あり/なされる/値踏みを賭けられる”ものであるからだ。それはフレームの外で、取捨選択された個々〔作品:作者:読者〕の言葉によって形成された“新しい(Nouvelle)”「雪の結晶」なのだ。

 改めて言及しよう、「その差異とは、フレーム外の音と彼らのいるイマージュ(あるいはモンタージュとのズレ)として現われる。」“誰か?”とは、“なく”、しかしながらそれは“彼ら”であり、“彼ら[の]”差異そのものの、そしておそらくは彼ら自身でさえ“はなればなれ”になったズレ――Bande ? part――でもある……それらの差異をゆらがせ、気化熱として発生させるもの――それこそが『<余白>の声』であり、「批評する」という行為である。
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