【批評祭参加作品】近代詩へのリンク ー富永太郎試論ー/石川敬大
のモダニズムの系譜の始まりに立っている詩人だとする佐々木幹郎の言質にも符合して、『詩の現在』のあとがきで城戸朱理が書きつけている、つぎのような言葉とともにわたしの胸内に痛烈に響いた。それは、「今日の状況は、やはり後退と言うしかないだろう。(中略)メタファーを主要な方法としてきた「戦後詩」が、その有効性を終えたあと、語るべき主題を失って個人的な感懐を語る抒情詩に解体され(中略)世界そのもの、主体そのもの、言葉そのもの、そして、詩そのものは、決して問われることはない」と。このような時代状況にエクリチュールの表現の後退であるとするディスクールを受け入れたなら、弁証法的に富永の詩も近代詩のメタファーのカテゴリー内で臨界点を示すだろう。しかしここで思い直して未来に向かって接木しようと翻って遡及し、モダニズムの劈頭に何度でも立ち戻って戦後詩を経てきた現代詩と照応するリンクを行なうとき、それは必ずや真の問いとなって、衰弱し瀕死の態にあるものを甦生させる重要な作業となるだろう。
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