お父さんだった/吉岡ペペロ
 
市営住宅を取り囲む塀のなかで

ぼくはひとり能の練習をしていた

隣接の公園でこどもたちの遊ぶ声が

やわらかなガラスみたいになって空を引っ掻いている

能を教えてくれたのはお母さんの男で

ぼくの血液上のお父さんだった

ほめられたい訳でもないのにまいにち練習をした

塀は夕日のぼくの影をえがいてくれている

夕餉の匂いが立ちはじめると

やはりぼくはさびしくなってゆく

ぼくの影さえ消えてしまった塀に

手の平ですこしふれて商店街で夕飯を買った

だれかに見られることを意識することが

あらゆる上達の礎なんだと

あの頃からぼくは知っていたように思い出す

だからあしたも舞台にあがるまえ

お父さんにぼくの影をうつして練習をする




戻る   Point(6)