ネームレスマン/草野春心
 


 前から五列目が空席だったから、
 ネームレスマンがそこに座った。
 彼女の膝の上で猫が寝ていたから、
 ネームレスマンがそのうえに座った。
 冷蔵庫でネギが腐っていたから、
 ネームレスマンがそいつを食べた。
 寝るところがないのは、
 ネームレスマンが枕を使っているから。
 胃と肺と膵臓と腸に穴が開いたのは、
 ネームレスマンが錐を持っているから。
 職場にネームレスマンの給与明細が残っている、
 ゼロがいっぱいついている。
 ネームレスマンはいくつもアカウントを持っている、
 たった一桁のパスワードを使っている。
 ネームレスマンのうちには本が一冊もない、
[次のページ]
戻る   Point(0)